
Shinjuku Washington Hotel, Tokyo (2007/08/31)
インターネットもブログもPCすらもなかった30年前、私は「英会話上達法」という本を書きました。実はこれ、英会話上達のためのハウトゥものとは程遠い狙いで書いた、日本人論、国際コミュニケーション論、もっというなら、カテゴリー分けを拒否する構えで書いた本だったのですが、初版は多くの書店の英会話学習関係、あるいは、ハウトゥものの棚に並べられました。講談社現代新書の一冊というラッキーな形でしたから、ほどなくそれらのピジョンホール(区分け棚)からは外され、最終200万部近くまで版を重ねる栄誉をいただきました。
このブログは、私の「新・英会話上達法」です。
ブログという仕組みの特性として、
1:定まるところなく、常に書き換え、追加、削除が自由自在。
2:コメント、トラックバックといった形での「読者」との交流。
3:時系列による叙述、カテゴリー分けが必須。
があろうかと思います。
したがって、書物とはちがった書き方、読まれ方がありそうで、その点で、新しいメディアでのパブリッシュという挑戦をしてみようと意気込んでいます。
1の点は、とてもとてもスリリングで、いい時代に生きているという充実感がいっぱいです。
2は、最終的な出版では著作権や個人情報等の問題がありますから、コメントは載せませんで、まだ書いてない「あとがき」で、このブログを育ててくださった「コメント友」の皆さんには謝辞を書きたいと思っています。
3は、悩ましいところです。うーん、どうしよう? これは「ことば」、これは「アート」、これは「メディア」etc. という区分け意識に、どうしても馴染めないNKさんなのです。
なぜ、3がそんなにイヤなのか、なぜ、「英会話上達法」でありながら英会話学校の教科書に指定したいという話が出版社にあったときに、それは参考書に留めてくださいと、著者自らが東京まで説明に行ったのか、また、そもそも、目的を定めてそのワクをまじめに守ることが苦痛な私が出来上がったのか‥‥の原体験というかフィロソフィの原点というかを、書いてみようと思います。
私には、人生三人の大恩人があります。
このお三方とのご縁がなければ、今日の私はありません。
永野寛先生(当時、松原中学校教諭/英語)
事情あって修学旅行に参加できなかったボクを、ご自宅の夕食に招いてくださり、学校のことにはいっさい触れず、だまって、たいせつになさっているライカ3bのシャッターを1秒にセットして、「押してごらん、いい音がするよ」と手渡してくださったのでした。
この先生のおかげで、今、英語を教え、写真するNKがいるのです。
ヨシダヤスオ先生(当時、大阪府立天王寺高校教諭/国語)
ある日「石山先生がお休みなので、私が代講です。源氏物語の時間ですが、他人の使っている同じ教科書の続きをやるのはイヤだから、今日は、北原白秋の話をします」という前置きで、白秋は最初の30秒だけで、"Let us go then you and me..."で始まる T.S.Eliot の解読に僕たちを引きこんで、授業時間延長、昼休みナシにしてしまったのでした。
ヨシダヤスオ先生の代講が恋しくて、石山先生ずっと病気だったらいいのになどと隣席の友達(今は大病院の院長)と本気で話していたものでした。
この先生のおかげで、シラバスなどクソくらえの倉谷教授がいるのです。「いた」が正しい。毎日の講義毎の目標を大嫌いなエクセル使用の一覧表にして教務課に提出、教科書進度表を毎回教室助手に提出、時間毎の目標を学生に配布、小テスト実施、成績評価法明示等々で、これをまじめに実行する、ジョークまで予定通りの教授の研究室には、いっさい学生が寄り付かず、もうこんなの大学じゃないよ、と思ったのが2003年。
ヨシダ先生のおかげで、「情報倫理学」という科目で、飛鳥の石舞台やジョン・コルトレーンに脱線してしまって戻れなくなるボクがいたのです。
柴田徹士先生(当時、大阪大学教授/英文学)
「僕は外国へ行ったことはありませんが」という前置きで、留学した学生など一人もいない英文科演習室で、でも、霧深い早朝のケンジントン公園に響くクリケットの音を、たしかに「聞こえ」させてくださったバージニア・ウルフ特殊講義。
この先生との出会いがなければ、「英文を正しく読む50講」(研究社出版)を書いた私はありませんでしたし、アメリカの大学で「留学経験のない日本人が大学で英語を教えているそうですが、嘆かわしいことですね」というバージニア、それは間違いですよ、逆に、日本語を教える最高の教師は日本人であるというドクター佐々木の言葉も、大きな間違いですと、留学経験もないのにアメリカの大学で英語で講義するプロフェッサー・キュラターニはありませんでした。
上の恩人の先生方に共通しているのは、この状況ではこうするのが普通、常識、というのには一顧をも与えず、ご自分がほんとうにボクに伝えたい、みんなにパブリッシュしたいことを、一生懸命、しかも上質の情報をふんだんに開示、まじめに、熱心に、表現してくださったことです。
結果、ボクの根底のフィロソフィを育ててくださることとなり、今日、ちょっと常識はずれの表現者であるボクを育ててくださったのでした。
そういうわけで、これは、英会話上達法の教則本ではありませんし、外国語としての日本語に関するエッセイ集ではありません。対照言語学の論集ではありません。これは、写真・カメラ趣味のブックではありません。辛口社会時評など、とんでもない。国際コミュニケーションのテキストではありません。教育論の論集ではありません。欧米文化研究の書物ではありません。思い出のあの人あの場所てな著作物ではありません。ネットおたくのブログ本ではありません。「ありません」尽くしの、これは、私の「ブログ地球村通信」なのです。
2007年夏 倉谷直臣 記す(っていうかぁ、キーたたく)